加治木正文

2015.06.11 | プライベート

杉並のちょっとした歴史~

荻窪店に異動となり早3ヶ月が経ちました(・∀・)

武蔵野市から杉並区へ。ふと杉並区を掘り下げて調べたくなりました。

 

そこでいきなり杉並区の歴史~♪

○江戸時代以前

平安時代までには、和田、阿佐谷、和泉、堀之内、永福寺、高井戸村は成立していた事になるそうです!

○江戸時代

江戸時代には、20村になっていました。 阿佐ヶ谷、天沼、下荻窪、堀之内の4つの村は麹町山王日枝神社の領地、上井草、下井草の2つの村は旗本今川氏の領地、和田村の全部と和泉、永福寺村の大部分は旗本内田氏の領地、残りの11の村は幕府直轄の天領でした。 五代将軍徳川綱吉の時代には、中野から天沼にかけての約29万坪に「お犬様」の犬小屋が作られ、約10万頭の犬が養われていました。
江戸時代、江戸日本橋を起点にして5つの街道を道幅5間にして宿場制度を設けましたが、甲州街道はその街道の一つで、甲州街道沿いには上高井戸宿、下高井戸宿と両方あわせて普通旅館と飲食兼業の旅館が24軒ありました。
しかし、他の街道と比べ寒村地帯を通り、参勤交代の甲州道中をするのは3大名8万6千石に過ぎなかったので、交通量も少なく宿の設備も劣っていたそうです。 一方、青梅街道は関所が無い上に、江戸-甲州間を甲州街道を利用するのに比べ8キロ短縮できる事などから別名「甲州裏路」と言われ、庶民的な街道でした。

 

○明治時代

馬車による街道交通が主だった明治16年当時、人口は甲州街道、青梅街道沿いに集中していました。 府中町、調布町、田無町、石灰岩を産する青梅町などで、特に甲州街道の重要な宿場にして織物の町だった八王子の人口は二万人でした。
明治22年(1889年)4月1日、新宿-立川間が開通し、新宿・中野・境(今の武蔵境駅)・立川の四駅が開業しました。 四ヶ月後の8月11日には新宿-八王子間が開通し、国分寺・八王子の二駅が開業しました。 中野駅と境駅の中間にある下荻窪村に荻窪駅が開業されたのは、二年後の明治24年(1891年)12月でした。
当時、街道から離れていた中野・立川間は広い武蔵野の原野と林と畑ばかりが続く寒村地帯で、荻窪駅の一日の乗降客は三百人でした。 畑の中の住宅地は人家がまばらで、人通りの少ない道には草が生い茂り、街路灯は少なくて月明りが頼りでした。
○大正時代

荻窪駅開業から三十年後の大正11年には、区内の他の中央線三駅(高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪)が同時に開業しました。 中野駅-高円寺駅-阿佐ヶ谷駅-荻窪駅のそれぞれの駅間隔は1.4km、1.2km、1.4kmとなり、他と比べて短くなっております。
大正12年に起きた関東大震災と太平洋戦争によって、下町の住宅の多くは壊滅しました。 そうした多くの住民が移住先として、貸家が多くて家賃も物価も安い杉並区の中央線沿線に移住して来ました。 戦争後は、原っぱの中にバラックが建ち並び、荻窪駅北口には闇市ができました。
大正の末に荻窪に土地を買い、別荘風のしゃれた家を建てて昭和2年に移り住み、創作活動を続けて、この地で没した与謝野寛・晶子夫妻は有名ですね。

 

○昭和時代

昭和30年代になると、郊外に建設された団地などからの通勤者が急増した結果、中央線の混雑度は300%になり、パンク寸前になりました。 オレンジ色の車両が登場したのは昭和32年でした。 混雑を緩和させる為に投入された新型車両でしたが、その後も団地などの建設が続けられた為に、混雑度が緩和されたのは一時的でした。
一方、国鉄のターミナル駅は、国鉄が山手線の内側への私鉄乗り入れをさせなかった為にさらにひどい混雑でした。 そこで、中野駅-三鷹駅間の高架複々線化と山手線内側を通る地下鉄の建設が始まりました。
高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪は同じ形の高架駅になりましたが、荻窪駅は昭和30年代まで荻窪駅にあった貨物線の跡地にホームを増設して地上のままで複々線化され、残りの土地を生かして駅ビルが建設されました。

 

そして現在に…我々が日々仕事をして不動産についてあーでもないこーでもないと語っているエリアですが

歴史ありなんですね(・∀・)

ふむふむ…よくわかったような…わからなかったような…

少しでも参考になれば幸いです^^;

 

それではまた~!